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  8月30日

夫がにやにやしながら、聞こえよがしに言った。

「新入社員の女の子がさぁ、なんか悩んでるんだよなー」

なぜそんなことを、わざわざ私に言うのか。

私にどんな答えを期待しているのか。

どうでもいいので、「あっそ。 相談にでも乗ってあげたら」 と

返してやった。

 

  8月31日

幼稚園の夏休みも、今日で終わり。

明日からまた毎日早起きしてお弁当作りだ。

正直、ちょっと面倒くさい。

 

  9月1日

初日から寝坊した。 へこむ。

夫は、私の知らないネクタイを着けていた。

誰から貰ったんだろう。

 

  9月2日

長女と次女が喧嘩をしていた。

長女が描いた絵を、次女がクレヨンでぐちゃぐちゃに

してしまったとか。

まだ2歳の次女に悪気はない。

こういう場合、普通は長女に 「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」

とでも言うのだろう。

でも、言えなかった。 私は次女を叱った。

 

 

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「お邪魔しまーす」

「うへへ、どうぞ入って入ってー」

 

玄関から声が聞こえて、私は飛び起きた。

どうやらコタツの中でうとうとしてしまったようだ。

しまった、寝過ごした。

 

社交辞令でも私に会いたいと言ってくれたんだから、

それなりに出迎えようと思ってたのに。

コタツから這い出して、窓ガラスに映る自分の姿を見た。

髪は変な寝癖がついてるし、上下ジャージだし、

ペディキュアは剥げかけている。

 

‥‥まぁ、いっか。

客が来るからって妙に着飾るのも、なんか自意識過剰みたいで

恥ずかしいし。

とりあえず、ぼっさぼさの髪を手ぐしで整える。

 

 

リビングの引き戸が開いて、2人が入ってきた。

「ただいまぁ」

いつも通りへらへらと笑っている絵里の後ろから、

長い黒髪がさらりと覗く。

 

「あっ、こんにちはー。 もしかしてお姉さんですか?」

「あ‥‥どうも」

 

一瞬、言葉に詰まった。

絵里のバイト先の後輩だという彼女は、

びっくりするほど可愛かった。

 

「お姉ちゃん、この子が前言ってたさゆ、あ、さゆみっていう子」

「さゆみです、よろしくお願いします」

 

人形みたいだ、と思った。

肌は陶器みたいに白くて滑らかで、背中までまっすぐ流れる黒髪は

毛先まで手入れが行き届いている。

きらきら光る真っ黒な瞳に吸い込まれそうだ。

私はぽかんと口を開けて固まった。

すげー、世の中にはこんな可愛い子がいるんだ。 

 

「‥‥‥‥」

「‥‥どうかしました?」

「へっ? あ、いや別に、フヒッ、何でもないっす、ぐふ」

 

うわ! 変な声出た!

まずい、今のは絵里の笑い方よりキショかった。

 

「あはは、よろしくお願いします」

「いやいやこちらこそ。

 えっと、絵里の姉です、ひとみです、どうも」

「ひとみさんかー。 なんかぴったりな名前ですね」

「えぇ? はぁ、うん、よく言われる」

 

昔から、初対面の人には決まり文句のように言われてきた言葉だ。

よほど印象的なのか。

生まれたばかりの私を見た両親は、目の大きさにちなんで

私を“ひとみ”と名づけたらしい。

誰から見ても、私の第一印象は“ひとみ”なのだろう。

 

 

さゆみちゃんが私の顔をじっと見つめている。

何なんだ一体。

どぎまぎして、思わずぐりんと目をそらしてしまった。

あ。 やべ。

 

「お、お茶とか! ちょっと待って、お茶的なもの出すねっ、

 ついでにおやつ的なものも」

 

思いっきり目をそらしたことの言い訳に、

私はキッチンへ向かうことにする。

なんで私こんなにテンパってるんだろう。

何に動揺してるんだろう。

 

「すみません、お気遣いなく」

「いやいやいやそんなわけにいかないから、

 お客様はあれだから、神様だから」

 

あぁ、またわけの分からないことを言ってしまった。

さゆみちゃんがきょとんとしている。

絵里が 「お姉ちゃん、なんか今日余裕なーい」 と言って笑った。

 

 

キッチンでお茶を淹れながら、ため息をついた。

初対面の人に対して爽やかに好印象を残すのは、

私の得意分野なはずだ。

あー、ほんと何してるんだろ自分。

最悪だ。 かっこ悪すぎる。

絶対、変な人だと思われた。

 

 

リビングにいる2人の会話に耳をすます。

 

「ねっ、さゆ、うちのお姉ちゃん美人でしょ。 うっへっへ」

「うん、びっくりしたー。 絵里とあんまり似てないね」

「あー、やっぱりね‥‥」

「あ! ごめん、そういう意味じゃなくて!」

「どういう意味だよう」

「絵里も可愛いけど、お姉さんとは系統が違うねって話」

 

少しほっとする。

今のところ、私に対するマイナスイメージはないみたいだ。

絵里のお姉さんって挙動不審だね、とか言われてなくてよかった。

 

 

やばい、何だこれは。

なんで私はこんなにどきどきしてるんだ。

 

彼女を見た瞬間、脳天にズドンと雷が落ちたような衝撃を受けた。

こんなこと初めてだ。

よく分かんないけど、恥ずかしい言葉で表現すると、

なんか、う、う、運命を感じた。

うおお。 ひどい。 我ながら痛すぎる。

 

でも、初めて会った彼女に物凄い勢いで強く魅かれたのは事実だ。

何なんだ、これが恋に落ちたってやつなのか、そうなのか。

 

自分でも説明のつかない甘ったるい感情に戸惑っている。

だいたい、さゆみちゃんは女だ。

おかしい。 だって私はなんちゃらビアンとかじゃないはず。

こんなこと今までなかったもん。

 

 

お茶と和菓子を持ってリビングに戻った。

 

「えー、羊羹きらーい。 絵里、チョコかクッキーがいい」

「うるさいな、文句あるなら自分で持ってこいよ」

「ぶー」

「さゆみちゃんは羊羹でいい? ごめんね、年寄りくさくて」

「いえ、ありがとうございます。

 私、栗ようかん大好きなんですよ」

 

ぶはっ。 だ、大好きとか。

こっち向いて言われるとなんか無駄にどきどきするんですけど。

 

‥‥だめだ、これは重症だ。

さゆみちゃんが好きなのは私じゃなくて羊羹だ。

分かってますよ、分かってますけど。

 

 

居た堪れなくて、この場から逃げ出したくて、

「コンビニ行ってくるっ!」

私はそう叫んで部屋を飛び出した。

 

財布を忘れたことに気づいたのは、

コンビニを通り過ぎてからだった。