☆☆☆

 

 

 

最高の気分だった。

ひとみさんは混乱した表情で私を見上げている。

うわごとのように私の名前を呼び続ける彼女の姿は、

この上なく哀れだった。

 

4年間憎み続けた吉澤ひとみが、今、

完全に私の手の中にあるのだ。

 

なんて気持ちいいんだろう。

ぞくぞくする。

もっともっと傷つけばいい。

私の姉と同じ分だけ、苦しめばいい。

 

 

姉の梨華が自殺したのは4年前、

私が中3になったばかりの春だった。

 

原因は分からなかった。

心当たりといえば、

死の数ヶ月前から少し帰りが遅くなったことくらいだろうか。

それでも夜9時前には必ず帰宅していたけど。

姉はもともと真面目な性格で、

大学生になっても夜遊びなんか全くしない人だった。

私たち家族は、姉に友達がいないんじゃないかと心配したものだ。

 

帰りが遅くなったことは、むしろ喜ばしい変化だった。

世間知らずのまま社会に出るよりは、

人並みに遊んでおいたほうがいい。

父も母もそういう考え方の人だったから、心配なんかしなかった。

 

それは、何の前触れもなく。

平和に暮らしていたはずの姉が、なぜ自ら死を選んだのか。

結局詳しいことは何も分からなくて、

私たちはただ姉の死を悲しむことしかできなかった。

 

 

ひとみさんは部屋の床に仰向けに倒れたまま、

顔だけをわずかにこちらに向けている。

また目が合った。

 

「‥‥さゆ、なんで‥‥」

呟くような声がした。

 

私は腰掛けていたベッドから立ち上がり、

ひとみさんの傍らにしゃがみ込む。

「知りたいですか?」

ひとみさんは唇を噛み締めて、涙をぽろぽろ流しながら頷いた。

 

 

私が姉の遺書を見つけたのは、あれから数ヶ月後だった。

ベッドと壁の間に落ちて挟まっていたのだ。

 

私はそれを、何度も何度も読み返した。

姉を自殺にまで追い込んだ吉澤ひとみという人物に対して、

激しい怒りが湧き上がった。

遺書を見つけたことは、両親には言わなかった。

内容を知っているのは私だけだ。

 

いつか絶対、私の手で吉澤ひとみに復讐してやる。

そう決意して、私はこの4年間ずっと

彼女に近づく機会を伺っていた。

 

私は吉澤ひとみのことを調べた。

彼女は優しい家族やたくさんの友人に囲まれ、

それなりに男とも付き合い、

大学生らしくバイトやサークル活動に勤しみ、

充実した生活を送っていた。

 

私の姉の人生を奪った張本人が、

うらやましいほど人生を楽しんでいる。

彼女のことを知れば知るほど、憎しみは強くなった。

 

バイト先が絵里と同じだったのは偶然なんかじゃない。

全ては計画通りだった。

 

 

そして今、私は心ゆくまで彼女を傷つけることができた。

目的を果たすことができたのだ。

 

 

私は、部屋に飾られていた写真立てを手に取った。

大好きなお姉ちゃんの写真。

ひとみさんの顎を、優しく指で持ち上げる。

 

「この人、覚えてます?」

 

一瞬の静寂。

ひとみさんは怪訝そうに眉を寄せ、申し訳なさそうに首を振った。

 

「覚えて‥‥ない?」

「‥‥ごめん」

「ふざけないで! さゆみのお姉ちゃんは

 あんたのせいで死んだんだから」

 

ひとみさんが目を見開いた。

 

「お姉ちゃんは、ずっとひとみさんのことが好きだったんです」

「‥‥‥‥」

「まだ思い出せないんですか?

 4年前、駅のホームで告白した石川梨華ですよ」

「え‥‥もしかして」

 

ひとみさんがはっとした表情になる。

目が泳ぎ、顔が青ざめる。

 

「あなたにフラれたせいで、お姉ちゃんは自殺したんです」

 

「そ、そんな、まさか」

「そりゃそうですよね。 まさかそんなことで自殺なんかするとは

 思いませんよね」

「‥‥あの、ごめんあたし別に傷つけるつもりじゃ」

「必死の想いで告白したお姉ちゃんに向かって 『気持ち悪い』 とか

 吐き捨てて、手紙は封も開けずにゴミ箱に捨てて、

 それでも傷つけるつもりじゃなかったなんて言えるんですか?」

 

 

お前のせいでお姉ちゃんは死んだんだ。

お前が殺したんだ。

それなのに、その顔すら記憶に残っていないほど

この人にとってはどうでもいい出来事だったのか。

お姉ちゃんは死ぬほど苦しんだのに。

 

一気に憎しみのボルテージが上がる。

私は発作的に、ひとみさんの首をぎゅっと掴んだ。

彼女の肩が揺れる。

私の指に伝わる、生きた鼓動。

 

「うっ‥‥」

指が食い込んでいく。

 

 

死ねばいい。

姉を殺し平然と生きてきたこの女を、私の手で消してやる。

死ね。 最後まで苦しんで死ね。

 

「ごめん、ごめん謝るから、‥‥っく‥‥」

 

「くるしいっ‥‥」

 

「‥‥ゆ‥‥ゆるし、て‥‥」

 

許すもんか。

姉の苦しみを、体で知るがいい。

私は無言で、ゆっくりと彼女の首を絞め上げる。

 

「あ‥‥うぐ‥‥」

抵抗される気配はなかった。

彼女はただ私の顔を見つめたまま。

 

 

私はこの人を憎んでいた。

大好きな姉を殺した吉澤ひとみを、殺したいくらい憎んでいた。

近づいたのも、すべて計算のうちだった。

 

それなのに、いつの間にか。

 

私の言動に一喜一憂する彼女を

愛しく思ってしまう自分がいた。

いちいち照れたり焦ったり凹んだりする年上の彼女のことが、

可愛くて仕方なかった。

 

違う、そうじゃない。 私はこいつを憎んでいる。

そうやって何度も自分に言い聞かせたけど、止められなくて。

認めたくなかっただけだ。

どんどん傾いていく自分の気持ちに、気づかないふりをしていた。

 

私は、ひとみさんのことが好きだった。

 

 

「‥‥さゆ‥‥」

彼女が何か言おうとしている。

 

小刻みに震える腕を、私のほうへ伸ばしてくる。

白い手が私の頬に触れた。

 

 

はっとして、私は彼女の瞳を見つめ返す。

だめだ、こんなくだらない情にほだされちゃいけない。

だって私の最終目的は、こいつに復讐することなんだから。

 

憎しみを思い出せ。

こいつがお姉ちゃんを殺したんだ。

殺せ殺せ殺せ。

 

 

「く‥‥」

細い首を絞め上げる。

彼女の顔が、さらに苦しそうに歪む。

 

死ね。 早く死ね。

私の憎しみが消えないうちに。

 

 

震える彼女の手が、愛しそうに私の頬を撫でた。

冷たい指から伝わる温かい感触。

心が揺れる。 憎悪が霞む。 溶ける。

 

「‥‥さ、ゆ‥‥すきだよ‥‥」

彼女はそう言って、かすかに笑った。

 

私は指に力を込めた。

 

 

彼女は静かに目を閉じる。

私の頬に触れていた手は、やがて糸が切れたように

くたっと床に滑り落ちた。

彼女の目尻から、涙がすうっとこめかみをつたい落ちていく。

 

時が止まり、音が止んだ。

すべてが、終わる。