シェルター

 

 

 

 

 

デジタル時計の表示をちらりと横目で見た。

12時17分。

お腹もへってきた頃だし、ちょうどいいか。

平日の昼間では客もそういない。

 

公園のそばの道路脇に車を止める。

運転席のシートを倒して背中を預けると、どっと疲れが噴き出した。

「‥‥はぁーーーあ」

ひとつ深いため息をついて、私は目を閉じた。

 

タクシーの運転手に転職して、もうすぐ1年が経つ。

私のようなうら若き乙女が‥‥というのはさすがに言いすぎたが、

まだ20代後半の独身女がこんな仕事をしているのには、

それなりに理由がある。

 

 

 

 

1年前まで、私は普通のOLだった。

高卒で、入社10年目。

同期の女の子たちにもちょこちょこ結婚して辞める子が出てきて、

迫り来る三十路を自覚してあせり始めた頃だった。

 

女性の少ない職場だった。

だから男性社員たちはみんな女の子をちやほやしていたけど、

どうも私に対しては違うようだった。

 

確かに私の顔はお世辞にも可愛いとは言えない。

性格だって、周りの女の子たちみたいに可愛く甘えることもできないし、

上司に理不尽な小言を言われれば反論するし、

同期や後輩たちがしっかりしていなければ説教もしたくなる。

要するに、私はおばさんくさくて可愛げのない女だった。

 

男性社員たちはよくこう言っていた。

「保田はさぁ、なんか女って感じがしないんだよなぁ」

「いや、だからその分、安心して付き合えるっていうか」

「男友達みたいなもんだよ」

そもそも私は女の子として認識されていなかったのだ。

 

 

私に割り当てられたポジションは、お笑いキャラだった。

 

普段の会話では、自虐ネタで笑いを取る。

本当は、そうやって自分を卑下するたびに悲しくなった。

飲み会では先陣を切って1発芸を披露する。

もともと私は芸のない人間で、本当はそんなこと苦手だった。

家で1人で1発芸の練習をしている時は虚しくてたまらなかった。

みんなで写真を撮る時は、

私は他の女の子たちみたいに可愛く写ろうとしてはいけない。

「うわー何だよ保田こえーよー」 とか何とか言われて笑ってもらえるような

顔やポーズを研究した。

 

私は周囲の期待に応えるべく、懸命にその役柄を演じていた。

 

 

 

 

お腹がぐうと鳴って、目を開けた。

このまま仮眠を取ってもよかったけど、腹がこう言っているなら仕方ない。

「さてと」

シートから体を起こし、ドアポケットから小銭入れを取り出す。

コンビニで安い弁当でも買ってこよう。

 

どこからか学校のチャイムの音が聞こえた。

懐かしい響き。

そういえば近くに私立の高校があった気がする。

 

‥‥昼休みか。

学生の頃はあのチャイムが待ち遠しくてしょうがなかった。

友達とわいわいお弁当食べるの楽しかったな。

タクシー運転手になった今となっては、

昼休憩は適当な時間に自分で勝手に取ればいいし、

1人淋しく無言でコンビニ弁当を食べている。

まぁ、これも気ままで楽だけど。

 

運転席のドアを開けて外に出ると、むわっとした熱気が体を包む。

アスファルトが目玉焼きでも焼けそうなくらい熱くなっているのが分かる。

手をかざして青空を見上げた。

眩しい日差しが肌をじりじりと焦がしている。

すっかり夏だ。

 

 

「‥‥あのぉ、すみません」

突然、背後から遠慮がちな声が聞こえて私は振り返った。

 

眩しい色彩が視界に入って面食らう。

白いポロシャツに水色のチェック柄のスカート、白いソックス。

何の変哲もない、普通の女子高生だった。

片手に弁当箱を抱えていたことと、上履きを履いていたことを除いては。

 

 

 

 

あの日は久しぶりの飲み会だった。

同僚の1人が大きな仕事を取ってきたとかで、そのお祝いも兼ねて

久々に課でパーッと飲もうじゃないか、ということだった。

値段も少し高めの居酒屋で、みんないつもよりテンションが高い。

 

しばらく飲み会がなくて油断していた私は、

芸を仕込んでくるのを忘れていた。

「おい保田ぁ、とりあえず景気づけに1発、何かやっちゃってよ」

乾杯の後、いつものように課長がそう言ったけど、

私はおどけた調子で答える。

「すみませーん、突然だったんで何も用意してないんですー」

 

『何だよ、そうかー。 じゃあ保田の代わりに誰かやれよ』

私の予想では、課長はそう言って私の同期の男性社員に振るはずだった。

だけど、現実は違った。

 

「何だよー、保田がやらねーと盛り上がんねえよ」

課長が笑いながらそう言うと、係長も言った。

「ネタが尽きたら脱げばいいんだ、脱げば誰でも笑い取れるんだから」

 

「ちょ‥‥それは男の場合でしょー。 私だって一応女の子なんですよぉ」

あくまで場の雰囲気を壊さないよう、私は冗談めかした口調で拒む。

 

助けてくれると思った同期の男たちが、爆笑しながら言った。

「女の子とか言うなよー、鳥肌立つわ」

「大丈夫大丈夫、お前が脱いでも誰も興奮しねーから」

「別に全裸になれって言ってるわけじゃないし」

「景気づけにパーッと盛り上げてくれりゃいいんだよ」

 

後輩の女子社員たちを見ると、みんな一瞬困ったような顔をしてから、

「そ‥‥そうですよ、保田さんならできますって!」

「見られても減るもんじゃないですよ」

「盛り上げて下さいよ、せっかくのお祝いの席ですし!」

 

「ぬーげ、ぬーげ、ぬーげ」

―――誰が言い出したか、その場は大合唱の「脱げ」コールになって、

「ぬーげ、ぬーげ、ぬーげ、ぬーげ」

頭の中が真っ白になって、私の中の何かがぷつんと切れた。

 

 

気づいたら私は、真っ暗な自宅の玄関にへたり込んでいた。

ストッキングはめちゃくちゃに伝線して、足の裏には血が滲んでいる。

怒りとも悲しみとも少し違う、絶望のようなものを感じて

私は声を上げて泣いた。

 

 

次の日、会社に行って辞表を提出した。

課長も係長も同期の男共も、みんな気まずそうに下を向いていて、

誰も私とは目を合わせなかった。

 

後輩の女の子が申し訳なさそうな顔で、遠慮がちに紙袋を差し出してくる。

「あの、これ‥‥昨日の」

私が居酒屋に置きっぱなしにした靴だった。

「捨てといて」

私は精いっぱい穏やかに笑ってそう言うと、振り向きもせずに

その場をあとにした。

 

 

 

 

目の前にいる女子高生は、一般的に見て可愛らしい子だった。

だけど、黒目がちな瞳は暗くて光がない。

 

「タクシーの‥‥運転手さん、ですよね」

「そうだけど」

「ちょっとだけ、車の中に入れてもらえませんか」

「乗るの?」

「いえ、あの、入れてもらうだけでいいんです」

「客でもない人入れる義理ないよ」

「すみません! お願いします‥‥ちょっとだけ避難、っていうか」

 

「避難」という言葉に私はぴくりと反応した。

口ごもってしまった女の子の白い上履きは、砂で茶色く汚れていた。

昼休みに、お弁当を抱えて、学校から逃げてきたのか。

靴も隠されて、上履きで。

 

「いいよ、入りな。 暑いでしょ」

私は後部座席のドアを開け、自分もまた運転席に乗り込んだ。

コンビニに行くのは後にしよう。

なんとなく、今はこの子と一緒にいてあげなければ、と思った。

 

 

 

 

その女子高生が後部座席に座ってお弁当を広げるのを、

私はルームミラーでちらちらと見ていた。

女子高生の名前は、有原さんといった。

 

「私、ちょっと前に転校してきたんです」

「転校してきてすぐ、橋本くん‥‥えっと、隣のクラスの男子に告白されて」

「全然その人のこと知らないけど、凄くかっこよかったし、

 やっぱり嬉しかったんでOKして付き合い始めたんですけど」

「橋本くん、学年で1番人気のある人だったらしくて」

「なんか最近、変な嫌がらせされるようになっちゃいました、はは‥‥」

 

有原さんは無理に笑ってみせたけど、その声はすっかり疲れきっていた。

こうしてお弁当を持って外に出てきてしまうくらい、

教室では嫌な思いをしているのだろう。

かちゃかちゃと箸を動かす音がして、運転席まで食べ物の匂いが漂ってきた。

 

「ちょっと色々あって、私いま友達いないんですよ、1人も。

 だから教室でもいづらくて」

「仲いい子同士で集まって、机くっつけてお弁当食べてるんですけどね」

「みんな、私に背中向けてるんです」

「もう耐えらんなくなって、誰もいない外で食べようと思ったんですけど」

「外に出ようと思ったら靴隠されてるし」

「しょうがないから上履きのまま出てきました」

「そこの公園で食べようかとも思ったんですけど、公園にいる人たちに

 うわーあの子こんな所で1人でお弁当食べてるよーいじめられてるのかなー

 かわいそー、とか思われるのも嫌だったんで」

「タクシー見つけて頼っちゃいました、ごめんなさい」

 

有原さんは、から揚げとご飯を一緒に口に入れた。

「橋本くんには相談してないの?」 と私は尋ねてみる。

 

「やっぱり橋本くんには余計な心配かけたくないし‥‥

 それに、嫌がらせも誰がやってるか分かんないんで」

「いや、だいたいの見当はついてるんですけど、証拠がないんですよ」

「教科書に落書きされたり、ノートもご丁寧に1枚1枚ぐしゃぐしゃにされてたり、

 ロッカーんとこの私の名前のシールが画鋲でいっぱい穴開けられてたり、

 体育から帰ってきたら制服が水浸しになってゴミ箱に捨てられてたりして」

「まぁそれくらいなら小学生レベルだし呆れるだけなんですけど」

 

有原さんはそこまで喋って、お弁当の卵焼きを頬張った。

箸を口元に添えたまま、もぐもぐと噛みしめて、ごくんと飲み込んだ。

 

「1番ヘコんだのはアイコラです」

「風俗嬢の画像とってきて、うまく私の顔とすげ替えたやつプリントアウトして、

 橋本くんのクラスの黒板に貼り付けたり」

 

有原さんはプチトマトを箸でつまんで、手を止めた。

何か考え込むように、真っ赤なプチトマトを見つめている。

 

「‥‥今うちの学年の中では、私、まりあちゃんっていう源氏名で

 蒲田でソープ嬢やってることになってるんですよ」

「あ、そういう噂が流れてるってことです」

「せっかくできた友達も離れていっちゃいました」

「橋本くんも噂には気づいてるだろうし‥‥多分、そろそろ私フラれますね」

「橋本くんにとっては、っていうか私以外の他人にとっては、

 噂が本当でも嘘でも関係ないんです。

 そういう噂が流れたってこと自体がイメージ悪いから」

 

有原さんは諦めたようにそう言って、プチトマトを口に放り込んだ。

 

 

「えーと、運転手さん、‥‥保田さん」

有原さんはダッシュボードの乗務員証を見て、私をそう呼んだ。

「明日もここに来たりします?」

 

何が言いたいかは分かった。

私は後部座席を振り返って微笑んだ。

「いいよ。 教室がつらいようだったら、明日もここで食べればいいよ」

 

有原さんは一瞬パッと嬉しそうに笑って、

すぐに恐縮した表情と口調になって 「すみません」 と言った。

 

「ありがとうございます。 ほんと助かります。

 これからタクシー乗る時は保田さんの会社のタクシーにして

 ってお父さんとお母さんに言っときますね!」

 

 

 

 

タクシー運転手にとって深夜は稼ぎ時だ。

今日もほろ酔い気分のおじさんを乗せて、新橋から八王子まで。

深夜割り増しで1万5千円はいくだろう。

ロングの客を1人でも捕まえると気分がいい。

 

「娘がね、昨日言ったんですよ。 もうお父さんとはお風呂入らないって」

「‥‥娘さん、おいくつですか」

「小学校5年生。 運転手さん、何歳まで父親と一緒に風呂入ってました?」

「そうですねぇ、私は‥‥たぶん2年生くらいだった気がしますね」

「じゃあうちは遅いほうなのかな」

「そうかもしれませんね。 私が5年生の時、同じクラスの女の子が

 『○○ちゃんってまだお父さんと一緒に風呂入ってるんだってー!』って

 からかわれてましたから」

「そうか、5年生は遅いのか。 それでもやっぱり淋しいなぁ。

 年とってからできた子だから可愛くってなぁ」

 

おじさんは独り言のように何かむにゃむにゃ言ったきり静かになって、

黙って窓の外を見つめているようだった。

 

このおじさんの娘さんも、あと何年か経って年頃になれば

男の子と付き合ったりするのだろう。

‥‥いや、最近の小学生はマセてるからな。

下手すりゃもうキッスのひとつやふたつ‥‥

 

 

昼間会った有原さんのことを思い出した。

橋本くんと付き合っている今、有原さんは幸せなんだろうか。

楽しいことと辛いこと、どちらが多いんだろう。

橋本くんと別れれば、嫌がらせもなくなるかもしれないのに。

やっぱり楽しいことのほうが多いから付き合い続けているのか。

 

有原さんは当然、親には何も相談していないのだろう。

お父さんとお母さんは、有原さんが学校でいじめられていることも、

橋本くんと付き合っていることも知らないのだろう。

 

 

親の知らないところで、子供にも色々あるんだよな。

子供も子供なりに苦労して悩んでいる。

このおじさんの娘さんも、もしかしたら昔の私のクラスメイトと同じように

学校でからかわれたりしたのかもしれないな。

 

そんなことを考えながら、タクシーを走らせた。

後ろのおじさんはいつの間にか寝入っていた。

 

 

 

 

次の日、私は12時前から昨日と同じ場所にタクシーを止めていた。

クーラーをがんがん効かせた車内で

コンビニで買ってきた冷やし中華を食べる。

 

食べ終わって暇になったので、窓の外を眺めた。

公園では、まだ幼稚園にも上がっていないような小さい子たちが

たくさん遊んでいる。

すぐそばのベンチで世間話をするママさんたち。

みんな私と同じくらいの年に見えた。

 

運転席のシートを倒した。

明け方の4時まで仕事をしていたから、さすがに眠い。

有原さんが来るまで仮眠を取ろう。

 

この先、私は子供を持てることがあるんだろうか。

結婚すらできるかどうか怪しい。

タクシーの運転手なんかしてるもんだから、出会いは皆無。

運転手仲間はみんな50代60代の枯れたおじさんだ。

 

一生独身か。

まぁそれも悪くないな。

でも、死ぬ時どうしよう。

「1人暮らしの老女、アパートの一室で孤独死」 「半年間発見されず」

‥‥とかなっちゃうのかな‥‥

 

なんて暗い未来を想像してしまって、私は考えるのをやめた。

どうでもいいや。

今は今のことだけ考えていればいい。

両手を枕にして、目を閉じる。

 

 

うとうとしかけた頃、4時間目の終了を知らせるチャイムが聞こえてきた。

12時半だ。

あの高校からここまで、歩いて3分くらいかな。

校舎内から校門までの時間もあるから、5分くらいかな。

 

私はハンドルに顎を乗せて、向こうからやってくる通行人を眺めていた。

スーパーの袋を両手にぶら下げたおばさん。

犬の散歩をしているおじいさん。

ベビーカーに赤ちゃんを乗せたお母さん。

手を繋いで歩く高校生のカップル。

 

―――え?

私は目をこらして、だんだん近づいてくるカップルを見つめる。

 

女の子のほうは有原さんだった。

ということは、隣にいるのは橋本くんなのだろう。

2人とも片手にお弁当箱を持っている。

 

有原さんは私に気づくと、橋本くんをちらりと見上げてから、

私に向かってぺこりと頭を下げた。

 

 

有原さんと橋本くんは仲良く手を繋いだまま、公園に入っていく。

しばらく公園の中を歩き回った後、2人は並んでベンチに座った。

そして、膝の上にお弁当を広げる。

 

なんだ。 橋本くん、いい奴じゃん。

有原さん、笑ってる。

 

頬が緩んだ。

運転席のシートを起こして、エンジンをふかす。

 

にこにこしながら楽しそうにお弁当を食べる有原さんを見て、

私はタクシーを発進させた。

 

 

 

 

 

 

 

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