隣人

 

 

 

 

 

「ふぅーーー」

私は重いダンボール箱2つを床に下ろして、大きく息を吐き出した。
今日からここが私の新しい部屋だ。
荷物を運び込んで埃っぽくなった部屋で、私は畳に座り込む。


少し前までは大学の女子寮に住んでいた。
男子禁制だったのだが、あろうことか私は彼氏を連れ込んで、えきべ‥‥
こ、事に及んでいるところを、相部屋の女の子に見られてしまったのだ。
私は寮を追い出されてしまった。

「あー、今うちのアパート空きあるで。 来るか? 藤本」
知り合いの中澤さんがそう言ってくれなかったら、

私は路頭に迷うところだった。
ありがたい。
やはり、持つべきものはアパート経営者の知人である。

 

「ぷはぁー」
ペットボトルのお茶を飲み干す。
ひと息ついて、今後のことを考えて少し憂鬱になる。


隣近所へ引越しの挨拶に行ったほうがいいのだろうか。
正直、気が進まない。
キツめの受け答えや鋭い目つきのせいだと思うが、

どうやら私は第1印象が悪いらしく、いつも他人と打ち解けるまでに

時間がかかるのだ。

とはいえ、最初から近所付き合いをないがしろにするわけにはいかない。
せめて同じ階の人たちには挨拶に行くことにしようか。


よく知らないけど、こういう時って確かそば持ってくんだよな、引越しそば。
手打ち‥‥は素人には無理だな。
それに、美貴ただでさえ料理へたくそだし。
慣れないことはしないほうがいい。

迷ったあげく、私は近くのコンビニで290円のざるそばを4つ買った。

 

 

 

 

まずは301号室。
呼び鈴を押して待っていると、金髪ボブヘアの女の子が出てきた。
「はい、何か」

私は深呼吸をして、頭の中で繰り返し練習してきた挨拶文を、

なるべく自然な作り笑顔で 言ってみる。

「どうもこんにちは、はじめまして。 304号室に越してきた藤本と申します」
「はぁ、どうも」
「えっと、仲良くしていただけると嬉しいです。 今後ともよろしくお願いします」
「はぁ」
「‥‥これ、お近づきのしるしに」

そう言って私がコンビニで買ったそばを差し出すと、

彼女は一瞬微妙な表情をしたが、 すぐに笑顔でお礼を言ってくれた。
「ありがとうございます、こちらこそよろしく。 あ、ちょっと待ってて下さいね」

彼女はそれだけ言って奥へ引っ込むと、部屋の中をガサガサした後、

綺麗なお菓子の箱を持ってきた。


「実は私、ちょっと前まで外国に旅行‥‥じゃなかった、留学してたんです。
 その時のお土産が余っちゃったんで、これ、よければどうぞ」

 

 

 

 

302号室は、ひげ面のおじさんと若い女の子の2人暮らしだった。
表札を見るとなぜか2人の苗字が違うのだが、年齢から見てきっと親子だろう。
女の子からは、かすかにタバコの香りがした。

 


303号室に住んでいたのは新婚の若い夫婦だった。
少し舌足らずでまだ幼い印象の奥さんは妊娠中で、年末に出産予定らしい。
旦那さんがにやにやしながら言った。
「いやぁ、避妊はしてたんですけどねー」

 


305号室も同じく新婚のご夫妻である。
奥さんはすらっと背が高く美人だったのだが、

突然、宇宙とか交信とか何とか言い始めたので、

私は変な宗教に勧誘される前にこの人とは距離を置こうと思った。
ちなみに彼女も同じ頃に出産予定だという。

 

 

 

 

無事に挨拶を済ませて緊張が解けたのか、腹がぐうと鳴った。
とりあえず食料を買いに行こう。
1日中引越し作業で疲れたし、料理をする気力もない。
う〜ん、今日はコンビニ弁当でいいや。


階段を降りていくと、

アパートの玄関口で大家の中澤さんが掃き掃除をしていた。

「おぅ藤本。 どうや、新居の住み心地は」
私は苦笑した。
「まだ住んだって言えるほど時間経ってないですよ」
「あは、それもそうやな。 まーお疲れさん」

そして私は何気なく付け足す。
「あ、でもさっき同じ階の人たちに挨拶してきたんですけど、

 みんな良い人たちみたいで安心しました」

中澤さんが目をぱちくりさせた。


「は? 今3階に住んどるの、あんただけやで」

 

 

私はコンビニに行くことも忘れて階段を駆け上がった。

3階の廊下はしんと静まりかえっている。
どの部屋も、さっきまでは確かにあったはずの表札がない。
試しに呼び鈴を押してみたが、誰も出てこない。
人の気配はなかった。

改めて恐怖が沸き起こる。

幽霊だ。
私は、この世のものではない何かに出会ってしまったのだ。


自分の部屋に飛び込んで厳重に鍵を掛け、部屋中の電気を点けた。
ベッドに潜り込む。
頭から布団をかぶって、体をきゅっと縮めた。


来るな来るな来るな。
何なんだよ、美貴に何の恨みがあるって言うんだ。

もう嫌だ、こんな所に住めるわけない。
中澤さんには申し訳ないけど、明日にでも荷物をまとめ直して出て行こう。
誰が好き好んで幽霊アパートなんかに住むかっつーの。

 

 

 

 

いつの間にか、少しうとうとしていたようだ。
ふと気づくと窓の外はすっかり暗くなり、時計の針は夜9時を

回ったところだった。

恐怖は少し落ち着き、私はお腹がへっていることに気づいた。
やっぱり何か買いに行こう。


そして布団の中でもそもそと体を起こそうとした時。
シーツを握りしめている自分の手を見て、私はぎょっとした。

‥‥透けてる。


信じられない思いで、震える手を開いた。
手のひらを透かして、シーツの皺がはっきりと見える。
指先はすでに消えかかっている。

ベッドから飛び起きて、Tシャツをめくり上げた。
ジャージの裾を引っ張り上げた。
腕、足、髪の毛、お腹。
私の体はゆっくりと、そして急激に透明になっていく。

 

 

「あ、あ‥‥」
何? 何なの? どうなってるの?

どんどん薄くぼやけていく自分の体を見つめながら、はっとした。


もしかして、‥‥あの人たちと同じ?

怖い! 怖いよ、美貴消えちゃうの?
もしかして、このままあの人たちみたいに幽霊になるの?
‥‥美貴、友達にも彼氏にも、中澤さんにも忘れ去られていくの?

 

 

必死でテーブルの上の携帯電話に手を伸ばした。
メール画面。
彼氏、いやだめだ、中澤さん。
本文入力。
‥‥「た」‥‥「す」

 

嫌だ嫌だ嫌だ!
美貴まだ若いんだよ! やりたいことだっていっぱいある!
消えたくない! まだ死にたくないよ!

 

 

「け」‥‥「て」‥‥
送信ボタンを押そうとした瞬間、

携帯電話は私の手の中をすり抜けて床に落ちた。
手が完全に消えたのだ。

 

 

やめてよ、美貴が何したって言うの?

 

どうして? 消えたくないよ‥‥

 

 

‥‥‥誰か、助けて‥‥‥

 

 

 

 

 

 

 

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