私は鏡が好きだ。
鏡の中にはいつでも可愛い女の子がいるから。
落ち込んだり悲しくなった時も、鏡を見ればすぐ幸せになれる。
私は自分の顔が大好きだ。

大きな姿見の鏡に全身を映し、私は微笑んだ。
「ふふっ、今日も可愛い」

鏡の中の女の子は、いつも私の口の動きを真似するだけだ。
声が出せないなんて可哀相。
こっち側にいる私はこんなに可愛い声なのに。

 

 

鏡に映る自分の顔を見つめた。

鏡の中ってどんな世界なんだろう。
やっぱり窮屈なのかな?
それとも、こっちと全く同じ世界が広がっていて

私と同じ生活をしてるのかな?


その時、鏡がぐにゃりと歪んだ。

え? ‥‥何これ‥‥?
顔の真ん中あたりを中心に、まるで渦を巻く水面のように

ぐるぐると歪んでいく。
ふっと気が遠くなって、私は意識を失った。

 

 

∞ ∞ ∞

 

 

気がつくと、私は鏡の前に倒れていた。
起き上がって、周りを見回す。
部屋全体に違和感を覚えたけど、それが何なのか分からない。

そういえば学校に行く支度をしているところだった、と思い出す。

早くしなきゃ。 遅刻しちゃう。

私は慌ただしく朝の身支度の続きに取りかかる。


紺色のブレザーをハンガーから取り、腕を通した。

「‥‥あれ?」
ボタンを掛けようとしたら、何とも言えないもどかしさを感じた。

それだけじゃない。
部屋のドアを開ける時、水道の蛇口をひねる時。
何かがおかしい。
やっぱり消えない違和感。

私は考え込んだ。
ブレザーのボタン、ドアノブ、蛇口。
指先の自由が利かなくなっているということだろうか?

 

何かの病気の前兆かもしれない。
どうしよう。 私まだ若いのに。

美人薄命って言うもんね。

 

 

ダイニングキッチンで、父が朝ご飯を食べていた。
テーブルの上には新聞を広げている。
おはよう、と寝ぼけ眼で挨拶すると、父も微笑んで

挨拶を返してくれた。

「あれ‥‥」
「ん? どうした、さゆみ」

父の手元から目が離せなくなった。
右手に茶碗、左手に箸。
お父さんって、左利きだったっけ‥‥?

何気なく、テーブルの上の新聞に目をやる。

私は息を呑んだ。
読めない。 新聞の見出しが読めない。
―――そう、文字が全て反転していたのだ。

 

 

私は悟った。

ここは鏡の中の世界だ。
制服もドアノブも蛇口も、部屋も新聞もお父さんも、

私以外の全てが反転している。
私は、鏡の中の私と入れ替わってしまったのだ。


階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
大きな姿見の前に立つと、

いつもと変わらない、鏡の中の私がそこにいた。

「ちょっと! あんた誰なのよ!

 さゆみを元の世界に戻してよ!」

叫びながら、鏡を掴んで揺さぶる。
鏡の中の私は何も答えず、にやりと笑っただけだった。

 

 

どうしよう。 どうすれば元に戻れる?
どこから抜け出せるの?

‥‥‥そうだ、この鏡を壊せばいい。


私は部屋を出て階段を降り、リビングへ向かった。
「さゆみ、そんな怖い顔してどうしたの?」
キッチンから、反転した母が私に声をかけた。
「別にー」

リビングに入り、

テーブルの上にあったガラス製の灰皿を手に取る。
私は、近くにいる反転した父に声をかけた。
「お父さん、ちょっとこれ借りるね」

 

 

自分の部屋に戻り、忌まわしい鏡の前に立つ。
鏡の中の自分も同じ灰皿を手にして、

鋭い目つきで私を睨んでいる。

「絶対そっちの世界に戻ってやるんだから。

 所詮、あんたはニセモノなんだよ」

私はそう言って、右手に持ったガラスの灰皿を振り上げた。
鏡の中の私も、左手の灰皿を振り上げた。

「本物はこっちのさゆみなの!

 ニセモノはニセモノの世界に帰れ!」


ガシャーン!

 

 

それは簡単に割れた。
大きな姿見の右上から全体にひびが走り、

いくつかの破片が下に散らばっている。

 

「え‥‥なに‥‥?」

灰皿をぶつけた部分の鏡の表面から血が出ている。

まるで鏡が怪我をしたみたい。

―――いや、違う。

血を流しているのは‥‥
ひび割れた鏡の中の私だった。



急に右のこめかみがズキズキと痛み出す。
右の手のひらでそこを押さえる。
鏡の中の私も顔を歪めて、左の手のひらで額を押さえる。

そこから離した右手を見て、私はぎょっとした。
手のひらがべっとりと赤い。

‥‥なんで?

殴られて怪我をしたのは鏡の中のあいつじゃなかったの?

灰皿で殴られたらしい私の額はぱっくりと割れ、

そこから真っ赤な血が噴き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

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