ささくれ薬指

 

 

 

 

 

玄関の鍵ががちゃがちゃと回される音がして、目を覚ました。

 

寝室の中は薄暗い。

ドアの隙間から廊下の明かりがわずかに差し込んでいる。

 

眠い目をこすりながら、手探りで枕元の携帯電話を引き寄せた。

ディスプレイの眩しさに目を細める。

深夜1時を過ぎていた。

 

「ただいまぁー」

ご機嫌なダミ声の後、荷物が乱暴に投げ出される音。

 

私は小さくため息をついてベッドから起き上がった。

 

 

玄関先には、義理の母親が床に突っ伏して倒れていた。

 

「もう、裕子さん今日飲み会だったの?」

「‥‥うー」

「言ってくれれば迎えに行ったのに」

 

私は彼女の肩を抱き起こすと、

よっこらしょ、と気合いを入れて立ち上がった。

すっかり脱力した彼女を寝室まで運ぶ。

 

 

水を汲んで持ってきたら、

彼女はベッドに突っ伏したまま寝息を立てていた。

 

「‥‥裕子さん」

「‥‥‥」

「寝ちゃった?」

「‥‥‥」

「ここに水置いとくから、気持ち悪くなったら飲んでね」

「‥‥‥‥ういー」

 

その返事に少し安心して、自分の部屋に戻った。

 

布団にくるまって目を閉じる。

時計の針の動く音がやけに耳につく。

隣の部屋の物音に耳を澄ましている自分がいる。

 

だめだ。

眠れそうにない。

 

 

 

 

裕子さんがこの家に来てから、もう10年以上になる。

物心ついた頃からうちは父子家庭だった。

別に母親が欲しいなんて思っていなかったけど、

小6の時、父が再婚した。

それが彼女だった。

 

当時まだ20代半ばだった彼女を、お母さんとは呼べなかった。

これからもそう呼ぶことはないだろう。

 

彼女も照れくさいらしく、私のことを名前では呼ばなかった。

うちに来たばかりの頃はひとみちゃんだとかひーちゃんなんて

呼ぶこともあったけど、今では専らアンタかジブンだ。

実際私もそのほうが気が楽だし、

今さらひーちゃんなんてガラでもない。

 

私自身がそれなりの年齢に達していたせいか、

裕子さんと私が本当の親子のように打ち解けることはなかった。

甘えたり頼ったりすることもなければ、

反抗したり喧嘩したりするわけでもない。

表面的には良好な関係を築いているように見えても、

私たちはどこかよそよそしいままだった。

 

 

高3の夏、父が死んだ。

 

赤の他人である裕子さんにこれ以上迷惑はかけられない。

就職して家を出る。

そう宣言した私に、彼女は言った。

 

「あほやなぁ。 今の時代、大学くらい出とかな苦労するで。

 気にせんでええからもう少し私に甘えとき」

 

嬉しかったし、正直驚いた。

裕子さんとの関係はもっとドライなものだと思っていたから。

私が思っていた以上に、彼女は私を気にかけていてくれたようだ。

 

 

裕子さんは今でも学費を払ってくれている。

結局すべり止めの私立大学にしか受からなかった私のために。

給料だけでは足りず、会社に内緒で夜の仕事を始めたことも

私は知っている。

何の血の繋がりもない私のためにどうしてそこまでしてくれるのか。

 

「あのさ、あたし学費くらい自分で払うよ。 バイトもしてるし」

「いらんわい。 うちの稼ぎなめとんのか」

「いや、だってなんか申し訳ないじゃん」

「あんたは将来に向けて、自分のために貯金しといたらええのよ」

 

いつだったか、そんなやりとりがあった。

 

もともと家を出るとか言い出したのは自分だったくせに、

私は“将来”という単語に漠然としたショックを受けた。

 

どこを区切りとするのかは分からない。

それを訊く勇気もなかった。

大学卒業か、あるいは結婚か。

多分そのどちらかのタイミングで、私は家を出なければならない。

 

考えてみれば当然だ。

裕子さんと一緒に暮らせるのもあと少し。

 

そう思ったら悲しくなって、私は部屋でこっそり泣いた。

私は裕子さんのことが好きだった。

 

 

 

 

「今度の土曜、連れてこいや」

 

一緒に朝ご飯を食べながら、裕子さんが言った。

目的語が省略されていたけど意味は分かる。

 

大学に入ってから、もう3年以上付き合っている彼氏がいる。

最近は将来の話も具体的に出るようになった。

将来の話。 要するにあれだ。

お互い就職も決まったし、婚期逃すのも嫌だし、

そろそろ落ち着くか、って。

 

まだ彼を裕子さんに会わせたことはなかった。

 

 

「男前か?」

「んー、普通くらい」

 

「優しい?」

「裕子さんよりは」

 

「うるさいな。 まっちょ?」

「腹筋は割れてるよ」

 

「おっし、合格。 それじゃあっちのほうは」

「え?」

「上手いか?」

「あは、まぁそれなりに」

 

 

裕子さんはにやにやしながら上機嫌でサラダの残りを頬張ると、

ごちそうさま、と手を合わせて席を立った。

 

「あぁーくっそ2日酔いやわ、会社めんどいなぁ」

ぼやきながら洗面所へと向かう、彼女の声が遠ざかっていく。

 

私はぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。

 

 

もし私が彼と結婚したいと言えば、

裕子さんは笑って祝福してくれるのだろう。

何のためらいもなく、私を送り出してくれるのだろう。

それは私にとって幸せなことのはずだ。

 

土曜日に彼と会って、裕子さんは彼のことを気に入るだろうか。

もし気に入らないと言ったら。

思考が止まる。

 

一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が情けなくなる。

ちまちまとゆで卵の殻を剥きながら、

そういえば冷蔵庫のビールが切れてたな、と

どうでもいいことを思った。

 

 

 

 

薄暗い部屋の中で、ベッドのスプリングが軋む。

 

真っ最中だというのに私はうわの空だった。

頭の中は別のことでいっぱいだ。

 

私は彼を見ていなかった。

彼の肩越しに見える天井の染みだけが、

妙にリアルな映像としてまぶたの裏に焼き付いている。

 

 

◇ 

 

 

「というわけなんだけど、土曜日ヒマ?」

 

事を済ませた私たちはベッドの中でまどろんでいた。

右半身にはりつく彼の体温に、なんとなく居心地の悪さを感じる。

 

「そういうことなら行くよ。 そろそろ挨拶行かなきゃいけないし」

そう言いつつも、彼はあまり乗り気ではないようだった。

 

「何だよ、何が不満なわけ」

「だってお前んちの母ちゃん怖いんでしょ」

「母ちゃんじゃないよ、裕子さんだよ」

「そう、それ。 ゆーこさん」

「ちょっと口調はきついけど、優しくていい人だもん」

 

私は不満げにそう返して、彼の肩にぐりぐりと頬を押し付けた。

彼は私の髪を梳きながら、うーん、と唸った。

 

「だってお前の話聞いてるとさ、

 裕子さんてすげー怖い人に思えてくるんだもん」

 

そうか、しまった、私のせいか。

私はよく彼に裕子さんの話をするけど、そのたびに

彼女の物真似をしていた。

それがいけなかったのかもしれない。

きっつい関西弁で鋭い目つきの、ヤンキー上がりの姉ちゃん

というイメージを植えつけてしまったようだ。

 

「まーあたしがいつもやってるあれは、わりと誇張してるから。

 デフォルメデフォルメ。 実際あそこまでひどくないよ」

「まじ?」

「そりゃ少しは怖いけど」

「ほらやっぱりー、俺やだよー」

 

なんだか面倒くさくなって、私は目を閉じた。

もういい。 裕子さんの話はしたくない。

 

ひとつため息をついて、投げやりな口調で言った。

 

「まぁいいじゃん、会ってみりゃ違うかもよ」

「かも、って」

「裕子さん、気に入った人には優しいし」

「気に入られなかったらどうすんの」

「努力しろよ」

「えー」

「ていうか眠い、もう眠いの。 おやすみ」

 

私はそれだけ言って寝返りをうつと、彼に背を向けた。

 

 

1分、2分。

寝たふり。 きっとバレてる。

 

しばらくして背中越しに、小さな声で 「おやすみ」 と聞こえた。

 

 

最近の私は何かおかしいのだ。

結婚とかそういう現実味のない話が現実になりつつあって、

それを素直に受け入れることができなくて。

 

もし結婚したら、私はつまり嫁に行くわけだ、彼は長男だし。

私は今の家を出なければならない。

裕子さんのいるあの家を、出て行かなければならない。

 

結婚したら、裕子さんとは離れ離れになるんだ。

本当に赤の他人同士に戻るんだ。

たまに食事に誘われて、「最近どう?」 なんて話をするくらいの

どうでもいい関係になっちゃうんだ。

 

こんなことを考えるだけで、なぜ涙が出てくるのか。

 

隣で眠っている彼に気づかれないように、声を押し殺して泣いた。

肩が震える。 胸が苦しい。 息ができない。

 

ゆーこさんゆーこさんゆーこさん。

死ぬほど苦しい、もうだめだ、頭がおかしくなりそうだ。

 

裕子さんは彼のことを気に入るだろうか。

もし気に入らないと言ったら。

私はそれを都合よく口実にして、きっと結婚をやめる。

そうすれば裕子さんとずっと一緒にいられるかもしれない。

 

私はどこまでもずるくて卑怯な人間だ。

 

 

温かい手のひらの感触に気づく。

とっくに寝ていると思っていた彼が、黙って私の背中を

撫でてくれていた。

 

この人は私を愛してくれている。

ごめんね。 好きだよ。 でも。

 

悲しくて情けなくて、彼に申し訳なくて、

私は背中を丸めて一晩泣いた。

 

 

◇ 

 

 

リビングの白いテーブルの周りには座布団が3つ、

律儀に並べられていた。

彼は妙に緊張してかしこまっている。

 

『俺、結婚の挨拶のつもりで行くからね』

前の日にふざけた口調でそんなことを言っていたけど、

あながち冗談でもなかったようだ。

 

「そんなガチガチにならんと、楽しく飲もうや」

裕子さんの手には、冷えた缶ビール。

土曜の夜ということでまさかとは思っていたが、

やはり徹夜で飲み明かす気のようだ。

 

テーブルの上には唐揚げやサラダ、枝豆なんかが置かれている。

彼を歓迎するために裕子さんが用意してくれたんだと思うと、

胸の奥がきゅうっとなった。

 

 

◇ 

 

 

酒には強いほうだった。

 

裕子さんの作ってくれた料理は美味しかったけど、

なぜか喉を通らず、

私は空腹をごまかすようにアルコールを流し込んだ。

 

缶ビールは瞬く間に4本空いた。

その先は数えていない。

ビールごときでは酔えなくて、冷蔵庫にあったウイスキーや焼酎、

ウォッカまで出してきて、

私は彼が止めるのも聞かず1人で飲みまくった。

 

 

「ゆーこさぁぁぁん、もう飲まないのぉー?」

 

気づいたら私はぐでんぐでんになっていて、

すっかり酔いが覚めた裕子さんにしつこく絡んでいた。

彼がおろおろしているのが目に入ったけど、

酩酊した頭では気が回らない。

 

私は裕子さんの腰に抱きついて、にへらと顔を緩ませた。

「うわキショっ、こいつなに笑ろとんねん」

「でへへへぇ」

 

裕子さんのわき腹あたりに顔を押し付けて、

すんすんと鼻をひくつかせる。

ふんわりした肌の匂いを感じて、幸せな気分になった。

 

 

「なぁ‥‥この子、酔っ払うといっつもこんなんなるん?」

「いや、普段はいくら飲んでも平気そうな顔してるんですけど」

「そうやんな、酒強いもんな」

「一緒に飲むといつも俺が先に潰れるんで」

 

裕子さんと彼が何か喋っている声が聞こえる。

内容は理解できない。

耳には入っているが頭には入っていない。

我ながら相当酔っているのは分かっていた。

 

 

「ねえねえ、ゆーこさんはなんでおとーさんと結婚したのー?」

「は!?」

「なんでー?」

「いや‥‥まぁ喋ってておもろかったからちゃうんかな。

 頭のいい人やったんよ」

「そっかぁ。 お父さんは頭よかったのに、

 なんであたしは頭が悪いのー?」

「知らんがな」

 

「ゆーーーーーこさんはぁーーー」

「何やねん」

「お父さんのこと好きだった?」

「そりゃあ、好きやなかったら結婚せえへんもん」

「あたしお父さんに似てる?」

「う〜ん、顔は似てるかなぁ」

「‥‥じゃあ、あたしのこと好き?」

「好きやで」

「きゃーーーーーーーーーーー」

 

私は両手で顔を覆って、じたばたと床の上を転げ回った。

どんな意味でもいい。

ためらいなく出た 「好き」 という言葉が嬉しかった。

 

楽しくて楽しくてはしゃがずにはいられない自分と、

それを冷静に見つめて呆れる自分がいる。

 

そばに座っているはずの彼が、今どんな顔で私を見ているのか。

考えたくもないし、考えられなかった。

 

 

ひと通り床を転がってから、私はまた裕子さんに抱きついた。

腕に力が入らず、ずるずると滑り落ちる。

私の頭はそのまま裕子さんの膝の上にぽすんと落ち着いた。

 

「あははぁー、ひざまくらー」

「‥‥あんた、ほんまに大丈夫か?」

「だいじょー‥‥‥ブヒー!!」

「ダメだこりゃ」

 

 

私は目を閉じた。

裕子さんの膝の上は柔らかくて温かかった。

 

「水、持ってきますね」

「ああ、すまん。 ありがとうな」

 

彼は立ち上がってキッチンのほうへ行ったようだ。

リビングのドアがぱたんと閉まった音がした。

 

 

「なぁ。 あんた、あの子と結婚するん?」

「‥‥えー?」

 

その問いかけが自分に向けられたものだと気づくのに、

少し時間がかかった。

沸騰しかけていた脳みそが急激に冷やされていく。

 

「もう付き合いも長いんやろ」

「そうかもー」

「ええ奴やんけ」

「うん」

「結婚するん?」

「‥‥たぶん」

「おお! そうと決まれば善は急げやで」

 

やけに冷静になった私の耳は、

裕子さんの一言一句を聞き逃すまいとしている。

 

「何事も早めに済ますに越したことはないで」

「うん‥‥」

「行き遅れるのもあれやし」

「‥‥‥」

 

裕子さんは私に結婚してほしいんだよね。

私が出ていったら、少しは淋しいと思ってくれるだろうか。

 

正直、せいせいするのかもしれない。

おそらく金銭的にも精神的にも、私は裕子さんの負担になっている。

一緒にいたいと思っているのは私だけだ。

 

 

「どうしたん、急に黙り込んで」

「‥‥あたし別に結婚なんかしたくないもん」

「「へ?」」

 

裕子さんの声に男の声が重なった。

水の入ったコップを持った彼が、キッチンから

戻ってきたところだった。

 

その瞬間、訳の分からない感情の波が押し寄せる。

喉の奥が締め付けられるように苦しくなる。

「うっ‥‥」

 

胸の中でもやもやと渦巻いていたものが弾ける。

目の前がぼやけ、一気に涙が溢れた。

 

「ちょ‥‥どうしたん、なんで泣くん」

「あの、違うの、あたし、あたし、よ、よ、よめに行く、とか」

「何や、落ち着いて喋れや」

「じゃなくて、ムコ、とりたくて」

「は?」

 

言いたいことをうまく言葉にできない。

裕子さんが見ている。

彼が聞いている。

 

裕子さんの膝に頭を預けたまま、嗚咽を漏らした。

涙が真横に流れ落ちていく。

 

「でもあいつ長男だから、だめで」

涙はこめかみをつたい落ちて、裕子さんのジーンズに

染みをつくった。

 

「じゃなくて、これ以上ゆーこさんに迷惑かけられないから、

 一緒に住んだりとか、できないし、

 要するに婿取ってもだめで、‥‥ひぃぃぃっく」

「あんたさっきから何言うてんの」

「だから結婚したくないの! あたしはずっとここにいたいんだ!

 うわああああん」

 

 

私は裕子さんの両膝にしがみついて、恥ずかしげもなく号泣した。

自分でもびっくりするくらい涙が溢れ続ける。

鼻水もたくさん出た。

ぐちゃぐちゃの顔を拭う余裕もなかった。

 

「なんで喜んでるのぉぉぉ、あたしは淋しいのにー」

 

裕子さんと彼は、ぽかんとしていた。

自分でも何を言ってるんだか分からなかった。

 

「やだよおおお、あたしこの家出たくないよー」

「家? 家にこだわっとるん?」

「だって淋しいんだもん、裕子さんと離れたくないんだもん」

「私かい」

「やだ! 結婚なんかしない! ずっと裕子さんと一緒にいる!」

 

私はそう言って、裕子さんの太ももに鼻をこすりつけた。

涙で湿ったジーンズは冷たかった。

 

「ゆーこさんがすきなんだよー、ひいいいん」

 

 

ああ、言っちゃった。

もう終わりだ。

何もかもどうでもいい。

 

裕子さんは驚いている。

彼は困ったような顔で私を見ている。

2人とも何を言えばいいのか分からず戸惑っている。

 

仕方ないよ、酔っ払ってるんだ、私。

こんな空気にしてごめんね。

でも今日は許して。

酔っ払いの言うことなんて本気にするもんじゃないよ。

 

 

「‥‥なんかすみません、俺、そろそろ帰りますね」

彼がそう言って立ち上がった。

 

彼は私の言葉にショックを受けただろうか。

やだ、行かないで。

私のこと嫌いにならないで。

 

「いや、こっちこそ‥‥すまんね、うちの子が」

「いえ、大丈夫です。 また改めてご挨拶に伺います」

 

 

彼が部屋を出て行く気配がした。

 

裕子さんは彼を見送るために立ち上がろうとしたが、

私が膝をがっちり押さえ込んでいるので諦めたようだった。

 

 

裕子さんは黙っている。

私は駄々っ子のように泣き続ける。

 

「結婚したくないよー」

したいけどしたくない。

 

「あいつのこと好きだけど」

裕子さんのほうが好きなんだよ。

 

「ずっとここにいたいんだよー」

裕子さんと離れたくないんだもん。

 

「ゆーこさんと一緒がいいよー」

 

彼女は何も言わずに、私の頭をそっと撫でた。

 

 

ごめん。

全部分かってる。

 

私は本当に結婚するんだと思う。

だってあいつのこと好きだもん。

 

結婚して子供産んで、幸せな家庭を築くんだ。

自分がそうするべきだって分かってる。

あいつと一緒になれば幸せになれるってことも、

裕子さんへの気持ちが報われないことも分かってる。

 

ちゃんと結婚するから。

だから今日だけは素直でいさせて。

 

 

私は、いつ泣き止めばいいのか分からなくなった子供のように

ただ彼女の膝の上で、ぐしぐしと鼻を鳴らしていた。

 

「‥‥‥はー」

頭の上からため息が降ってきた。

 

ああ、そりゃ呆れるよね。

私は卑怯で欲張りで臆病で、

こんなふうに酒の勢いに頼るしかなくて。

その上、いい年して泣き喚いちゃったりして。

 

 

「ほんまに困った子やね、ひーちゃんは」

 

裕子さんの声が柔らかく響いた。

 

嗚咽が止まる。

私はゆっくりとまばたきをした。

 

慈愛に満ちたその言葉を、声を、何度も頭の中で反芻する。

不思議な感情が湧き上がる。

それは最初から分かっていたことで、

今初めて気づいたことでもあって。

 

 

「あんたがそうしたいんなら、ずーっとここにおってもええんよ」

 

私は彼女の顔を見上げた。

目が合うと彼女は微笑んで、私の髪を優しく撫でた。

 

 

私は裕子さんが好きだ。

その感情に名前を付けるつもりはない。

 

きっと、これからもずっと裕子さんのことが好きだ。

同じくらい大切な人ができたとしても。

 

涙と鼻水を盛大に垂れ流しながら、私はえへへと笑った。

 

 

私は彼と結婚する。

幸せになるんだ。

 

結婚するまでに、1度でもこの人を

「お母さん」 と呼ぶことができればいい。

 

 

 

 

 

 

 

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