夕焼けファイトガール

 

 

 

 

 

「岡井さん、いるんだろ?」

「居留守なんか使ってねえでさっさと出てこいや」

 

今日も来たか、あの人たち。

ここのところ毎日だ。

それもだんだん酷くなってきている。

 

いつかこうなるだろうことは予想できていたから、

私は結構落ち着いていた。

当事者である両親がびくびくしているのを見るとあほらしくなる。

元はといえば全部あんたたちのせいじゃないか。

 

 

喉が渇いていた。

足音を忍ばせてキッチンに行き、冷蔵庫を開けて

カルピスのビンを取り出す。

 

「あ」

コップに注ごうとして気づいた。

カルピスの原液はほとんど残っていなかった。

根気強くビンを傾け続けていると、わずかな量がひとすじ流れ落ちた。

 

「おい聞いてんのかおっさん!

 金は借りたら返せって小学校で習っただろーが」

「こっちだって困ってんだよ」

 

玄関のドアがドンドンと鳴り響いている。

こんなボロアパートのドア、

ちょっと蹴り飛ばしたら吹っ飛びそうだけど。

あえてそうせずに玄関前でずっと騒ぎ続けているのは、

近所迷惑になることを分かっていて

うちにプレッシャーをかけているのだ。

 

 

ほんのわずかなカルピスの原液を、

水道水でこれでもかと薄める。

喉を潤したいだけだし、味がないよりはマシだ。

 

家の中全体にアルコール臭が充満している。

父が居間の畳に座り込み、虚ろな目をして酒をあおっていた。

不精ひげにボサボサの髪、襟ぐりの伸びたジャージ。

父はこの数ヶ月、まともな職に就いていない。

 

私は薄すぎるカルピスを一気に飲み干した。

‥‥もはやカルピス風味の水道水というべきか。

かすかに塩素のにおいが鼻に抜けた。

 

 

「あのねぇ岡井さん、返してもらわないと俺らも困るんですよー」

「金借りといて返さなかったら泥棒と同じだぞ」

「いいかげん開けろや、おっさんよー」

 

ドスの利いた声が外から低く響く。

目の下に隈のできた母が、ドアを背に押さえながら俯いていた。

ドアが激しく叩かれるたびに、

背中越しに伝わる振動で母の体が揺れる。

母からも酒のにおいがした。

 

 

私の父と母は、たじゅうさいむしゃ、というやつだった。

 

始まりは去年の夏。

父は会社をリストラされてから競馬やパチンコにのめり込み、

あちこちのサラ金から借金を繰り返すようになった。

再就職先を探そうともせず、たまに日雇いの肉体労働をするだけ。

母も最初はパートで働いたりしていたのだが、

そのうち父と一緒にパチンコに出かけるようになって、

パートの仕事もいつの間にか辞めてしまった。

 

ヤミ金にまで手を出したこともあって2人の借金は雪だるま式に

膨れ上がり、今では全部で数百万という単位らしい。

そんなお金すぐに返せるわけないし、そもそもまともに働いてないし、

2人揃ってアル中だし。

たまに臨時収入があったとしてもすぐギャンブルにつぎ込んで

しまうので、お金なんか溜まるわけがなかった。

 

 

「おめーらが大人しく金払うまでここで待ってるからな」

「さっさと出てこいっつってんだよ」

「あのさぁ、俺らが騒いでるとご近所さんにも迷惑でしょ?

 岡井さんが素直に出てくりゃ穏便に済む話なんですけどねー」

 

カルピス‥‥風味の水、を最後の1滴まで舐め取って、

飲み終えたコップを少々乱暴に流しに置いた。

キン、とガラスの響く音。

 

「千聖! 静かにしろって言ってるでしょ!

 外にあいつらいるんだから」

ドアにもたれかかっていた母が酒くさい息を吐き出しながら、

囁くような声で私を叱る。

 

関係ないよ、居留守なんてとっくにバレてるんだから。

私は無言で家の中を見渡した。

‥‥空気が死んでる。

 

血走った目で私を睨むお母さん。

焦点の合わない目で虚空を見つめるお父さん。

お父さんもお母さんも、私も。

この家は死んでいる。

 

衝動的にカルピスの空きビンを掴んで、玄関のドアに

思いっきり投げつけた。

パリーン!

ビンは母の顔をかすめ、ドアに当たって粉々に砕け落ちる。

 

意外と高い音がするんだな、と思った。

掴んだビンの冷たい感触は、やけに生々しく手のひらに残った。

力の抜けた母が、ずるずるとその場にへたり込んでいた。

 

 

$ $ $

 

 

今日は家に帰ってくるべきじゃなかった。

父も母も夕方からの日雇いの仕事に行っている。

夜は私1人になること分かってたのに。

 

「おい! いるんだろ!? いいかげんにしろよ」

「借りるだけ借りといて持ち逃げかぁ?」

「家ぶっ壊されてーのか」

「いつまで引きこもってる気だよ?」

 

今までにないくらいの激しさで、ドアがドゴンドゴン叩かれている。

本当に壊す気なのかもしれない。

 

なんで私、今日に限って帰ってきちゃったんだろう。

ゲーセンにでも行って、夜中まで暇潰してればよかった。

 

私は部屋の隅で布団をかぶって震えていた。

取り立てなんて毎日のことで慣れていたはずなのに。

1人というのはこんなに心細いものなのか。

 

 

「おいコラ、おっさんおばさん! しまいにゃ俺らもキレるぞ」

「金がないとか言ってるけどなぁ、おめーら何が何でも返そうっつー

 気合いが足りねえんだよ、気合いが」

「金作るためなら何でもしてみろよ、甘いことしてねえでさぁ」

 

もう嫌だ、なんで私が1人でこんな怖い思いしなきゃいけないの?

私が玄関に出て行って、お父さんとお母さんは今いないんです、

って言ったら今日のところは帰ってもらえるかな。

だって借金してるのは私じゃなくてお父さんとお母さんなんだから。

相手はヤクザだし怖いけど、帰ってもらうにはそれしか方法はない。

 

そう思って立ち上がろうとした瞬間、

次に聞こえた言葉に体がこわばった。

 

「あんたんとこ、中学生の娘がいるんだろ?」

「娘に体でも売らせて金作るくらいの度胸見せろや」

 

―――頭が真っ白になる、という状態を経験したのは初めてだった。

しばらく呆然とした後、改めて恐怖が湧き起こる。

震えが止まらない。

膝を抱きしめて身を縮め、頭まで布団をかぶった。

 

 

「出てくるまでこっから動かねーぞー」

「ここで夜中まで借金大王歌ってやろうか」

 

どうしたらいいの?

私、借金のカタにヤクザに売り飛ばされちゃったりするの?

 

窓からオレンジ色の西日が射し込んでいる。

布団からはみ出した足の甲がじりじりと熱くなった。

 

返せるお金なんてない。

学校の給食費でさえ払えてないのに。

今日だって冷蔵庫の中は空っぽで、さっきから私のお腹は

ぐうぐう鳴っている。

 

 

「貸した金返せよー! 貸した金返せよー!」

 

あいつらは調子に乗ってウルフルズの歌を歌っている。

その声はどうやら本気で楽しんでいるようで、

私はなんだか笑えると同時に悲しくなってきた。

 

家の前で大声で借金大王を歌われている岡井家。

もう世間体も何もあったもんじゃない。

当然、うちのことはご近所中に知れ渡っている。

私が外を歩いていると、立ち話をしている奥さんたちが私を見て、

声をひそめて何か噂している。

 

 

「さっさと金返せよっ、おう! 貸した金っ、はした金じゃねえぞー!」

「さっさとしねえと金も友達も消えて無くなるぞー!」

 

あいつらはまだノリノリで大合唱している。

借金大王の歌詞がいちいち私の心をえぐった。

かぶった布団に顔を押しつける。

 

もう学校にも行きたくない。

クラスの子たちに知られるのも時間の問題だろう。

いや、本当はみんな知っているのかもしれない。

知っていて、心の中で私をバカにしているのかもしれない。

 

悔しい。 悲しい。 怖い。 お腹もへった。

なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?

何も悪いことしてないのに。

滲んできた涙が布団に染み込んで冷たかった。

 

 

その時だった。

 

「おー、絶好調だねぇ」

「あ? ‥‥あ! お嬢! ちわっす」

「「「ちわっす!」」」

 

場違いなほどのんびりした女の人の声のあと、

ヤクザ共が一斉に改まった声で挨拶をしたのが聞こえた。

 

「どうしたの、歌なんか歌っちゃって」

「いやぁ、ここの奴らがなかなか出てこねーから

 プレッシャーかけてるんすよ」

「あっはっは、そうかぁ。 まぁ頑張ってちゃんと回収しといてよ」

 

 

女の人は、どうやら取り立て業者の偉い人みたいだった。

お嬢と呼ばれていることから察するに、

おそらくヤクザの組長の娘か何かなんだろう。

私はドアの外の会話に耳をすませた。

 

「それよりお嬢こそどうしたんすか、こんなとこに来て」

「あぁ、その辺通りかかったらあんたたちの声が聞こえたからさ、

 ちょっと若手の仕事っぷりを見てこようと思って」

「やめて下さいよー、緊張するじゃないっすか」

「で、どうなの? 調子は」

「それがもう頑として開けないんで困ってるとこです。

 話もできやしねえ」

「なんだ、そういうことか。 ちょっと待ってな」

 

―――え?

玄関のほうから、かりかりと何かをひっかくような音が聞こえた後、

がちゃり、と音がした。

 

身構える暇もなく、ドアが開けられた。

 

「ほら、開いた開いた」

「お嬢すげー! どこでピッキングなんか覚えたんすか」

「高校の時、よく部室の鍵がぶっ壊れて開かなくなってたから」

「すげぇ」

「さすがお嬢」

「かっけぇ」

「レベルがちげぇ」

「いやぁ、たいしたことないって。 じゃ、お邪魔しまーす」

 

靴を脱ぐ音が聞こえて、

誰かがずかずかと家の中に上がり込んできた。

今さら逃げ隠れするわけにもいかない。

私は体育座りでうずくまったまま、布団の中で体をきゅっと縮める。

居間の引き戸が開けられた。

 

「なんだ、子供しかいないじゃん」

 

頭の上から降ってきた声は、思いのほか柔らかかった。

おそるおそる顔を上げる。

まだ4月だというのに裸足の白い足、華奢な体、

いまどき珍しい金髪。

大きな瞳と目が合うと、女の人はいたずらっぽく笑った。

 

 

「あんたたち、今日は帰りな」

女の人は玄関の男たちにそう言って、

私の目の前にしゃがみ込んだ。

 

「おい、ぼーず。 今日お父さんとお母さんは?」

「‥‥‥明日の朝まで仕事」

坊主と呼ばれたことに少し腹が立ったけど、しぶしぶ答える。

 

「そーかぁ。 ごめんね、怖かっただろ」

「別に‥‥慣れてるし」

女の人はにーっと笑って、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「いいねいいね、やっぱ男の子は根性がないとな」

 

男に間違えられたことにかちんと来て、

「誰が男だ!」

私はがばっと立ち上がる。

頭1つ分高い相手を見上げて睨みつけた。

 

「あ、女の子だったの? ごめんごめん、あはは」

女の人は悪びれもせずにそう言うと、私の肩に腕を回した。

‥‥かと思いきや、

「おーおー、おっぱいも立派に膨らみやがって」

私の胸をぽんぽんと軽く叩いて笑った。

 

「やめろよ!」

反射的に腕を振りほどく。

女の人はきょとんとした顔で私を見ていた。

 

 

背が低いのも、胸が大きいのも、コンプレックスだった。

 

小学校の時から続けてきた大好きなサッカー。

中学で当然のようにサッカー部に入ったら、女子は私1人だった。

だけど私は気にしなかった。

足の速さもドリブルの技術も男子には負けない自信があったから。

 

でも、それは最初のうちだけだった。

周りの男子はどんどん背が伸び、筋肉がついて、身体能力は向上し、

技術もめきめきと上達していく。

私の身長は中2でぴたりと止まり、体はだんだん丸みを帯びてきた。

大きくなった胸はスポーツをするには邪魔すぎたし、

走るたびに揺れて痛みをともなった。

 

「おい、少年」

「男じゃないってば」

「まだ5時だよ」

「それが何?」

「健康な中学生は、部活にいそしんでる時間じゃないのか」

「‥‥部活なんか辞めたよ」

 

身体能力に限界を感じた私は、中2の秋に部活を辞めた。

サッカーは大好きだったけど、

仲間の男子部員たちの足を引っ張りたくはない。

それに、ちょうど両親が借金地獄にはまりかけた頃だったし。

色々とお金がかかるサッカー部なんかやってる余裕は

なかったんだから、どっちにしろ諦めなきゃいけなかったんだ。

 

 

「おい、少年」

「だから男じゃないって」

「何か食べるもんない?」

「‥‥‥へ?」

「あたし、お腹へっちゃった」

 

女の人はきょろきょろと周りを見回して、

キッチンの冷蔵庫に目を留める。

「だ、だめ!」

反射的に、彼女の服の裾を掴んで引き戻した。

相手が取り立て業者でも、

空っぽの冷蔵庫を見られるのは恥ずかしかった。

 

「今、ちょうど食材とか使いきったとこで‥‥

 まだ買い物行ってなくて」

 

本当は買い物なんか行くお金はない。

日雇いの仕事を終えた両親が明日帰ってくるまで、

私は正真正銘の一文無しなのだ。

今日は空腹を我慢してさっさと寝るつもりだった。

 

女の人は見透かしたように微笑むと、

少しかがんで、背の低い私に目線を合わせた。

 

「じゃあさ、今からちょっと買い物付き合ってくれない?

 あたしもう腹へって死にそうなの」

 

 

$ $ $

 

 

あれから1ヶ月が経った。

取り立て業者は、あの日からぱったりと来なくなった。

やっぱり“お嬢”の権力なんだろうか。

 

ヨシザワと名乗った女の人は、帰り際に

じこはさん、とか、にんいせいり、とかいう言葉を私に教えた。

「でも自己破産は勘弁してね。 うちが大損するから」

とも言っていた。

 

あれから何度かうちに弁護士っぽい人が出入りしていたから、

一応それなりに話はついたんだと思う。

これからも借金の返済はまだまだ続くみたいだけど、

ヤクザに怯えることはなくなった。

 

 

$ $ $

 

 

あの日、ヨシザワさんは私を連れて近所のスーパーに行った。

うきうきと野菜や肉を買い込む姿は、とてもヤクザのお嬢とは

思えなかった。

 

帰宅してからはてきぱきと手際よく料理を仕上げ、

サラダや唐揚げ、野菜炒めなどがずらりと食卓に並んだ。

見ているだけで涎が出てくる。

 

「おい、少年」

「少年じゃないもん」

「ごはん作りすぎちゃったからさ、あんたも食べなよ」

「‥‥いいの?」

 

はらぺこだった私は、夢中になってご飯をかき込んだ。

ヨシザワさんはにこにこしながら私を眺めていた。

私がそれに気づいて 「食べないの?」 と声をかけると、

「あー、うん。 腹へってたの、気のせいだったみたい」

やっぱり初めから私に食べさせるつもりだったようだ。

 

滲んできた涙を袖で拭って、野菜炒めをもぐもぐと噛みしめた。

料理は涙と鼻水のせいで塩味が効いていたけど、

今まで食べたどんなものよりもおいしかった。

 

 

さてと、と言ってヨシザワさんは立ち上がった。

 

「多めに作っといたから、

 余ったらお父さんとお母さんに残しといてあげな」

「うん、そうする。 ‥‥あの」

「ん?」

「‥‥ありがとうございました」

「あはは、いいってことよ」

「でも、なんかやっぱ申し訳なくて」

「いーのいーの、元はといえばうちの若いもんがいけないんだし。

 怖がらせたお詫びだよ」

 

ヨシザワさんはひと息つくと、

財布から1万円札を取り出して私に握らせた。

 

「これ、口止め料ね」

「へ?」

「だってあたし不法侵入しちゃったし。

 これあげるから警察に突き出すのは勘弁してってこと」

「そんなの貰わなくても言わな‥‥」

「いいから! こういう時はありがたく受け取っときゃいいんだよ」

 

ヨシザワさんはくしゃくしゃの1万円札と一緒に私の手を握りしめると、

私の目を見つめて言った。

「賢く使えよ。 間違ってもゲーセンで豪遊とかするんじゃないぞ。

 このお金は、ほんとに必要だと思ったものに使うんだ」

 

 

$ $ $

 

 

窓から射し込む西日が肌をじりじりと焦がしていた。

家の中はあの日と同じ、綺麗なオレンジ色に染まっている。

 

「おーい岡井ちゃん、サッカーしようぜ」

ドアの外から友達の声がする。

 

「今行くー!」

買ったばかりのサッカーボールを抱えて、

私は慌てて玄関へ向かう。

 

靴を履いてドアを開けると、友達がふくれっ面で立っていた。

「おっせーよ、外に出て待ってろって言ったじゃん」

「ごめんごめん」

 

頭1つ分高い友達の顔を見上げて、にーっと笑う。

私はヨシザワさんと一緒に、夕焼けの中へ駆け出していった。

 

 

 

 

 

 

 

→ back ←