「今日はバイトだから遅くなるよ」
「何時頃になる?」
「12時過ぎちゃうかな」
「‥‥もう1回」
「ああ、ごめん。 じゅう、に、じ」

私はごっちんが唇を読みやすいように文字を区切りながら

指で1と2を示す。

ごっちんは少しがっかりした表情で頷くと、

早く帰ってきてね、と言った。
罪悪感で胸がちくりと痛んだ。

 

[]

 

 

ごっちんの家に住み始めてから、もう3年半になる。
大学が実家から遠く、でも1人暮らしができるほど家計に

余裕があるわけでもない。
そんな私を、ごっちんが好意で自宅に住まわせてくれているのだ。

経済的な負い目は感じている。
ごっちんは私に生活費を請求しない。
せめて家賃くらいは払いたいのに、それすら受け取ってくれない。
「いらないってば。 よっすぃーからお金なんて取れないよ」
いつもそう言って、ふにゃふにゃ笑っている。


ごっちんとは高校時代からの付き合いだ。
両親を早くに亡くしたごっちんは、

だだっ広い豪邸にたった1人で住んでいた。
高校を中退した後は進学も就職もせずに、裕福だった両親の遺産を

食い潰しながら家にひきこもっている。

せめて大学を卒業するまではここでお世話になっていようかな、と思う。
もし私がここを出て行ったら、

ごっちんは正真正銘の1人ぼっちになってしまうからだ。

 

 

ごっちんの耳が聞こえなくなってきたのは、

一緒に暮らして1年が過ぎた頃だった。

「絶対おかしいって。 早く病院行って診てもらおうよ」
「やだ。 病院きらい」
「いや、嫌いとか言ってる場合じゃないでしょ。

 行かなきゃ治るもんも治らないよ」
「別に治らなくたって困らないもん」
「なんか変な病気だったらどうすんの」
「どうもしない。 そんなに行きたいなら、よっすぃーが1人で行けばいい」
「もー、めちゃくちゃなこと言うなよ」

そんな調子で、埒が明かなかった。


しかし実際、生活する上で困ることはなかった。
生まれつきの聾唖ではないから、

発音やイントネーションが少々おかしいとはいえ、言葉はしっかり喋れる。
人の言葉も唇を読むことである程度理解できるし、

分からないなら筆談すればいい。

結局ごっちんは耳を放置し続け、

気づいた時には聴力はほとんど失われていた。

 

 

このことも、私がごっちんの家から出て行きづらい原因の1つだった。
本当はもう1人暮らしができるくらい貯金も貯まっているし、

とっくに就職も決まったし、私自身はいつでも出て行ける状態なのだ。

だけど私がいなくなったら、ごっちんはどうなる?
耳が悪い。 人付き合いもない。
もし病気になっても、看病してくれる人がいない。

しかもごっちんは病院嫌いだ。
もし何かあったらどうしよう。
大袈裟だけど、突然死、孤独死、誰にも気づかれないまま白骨化、

もしくはミイラ化、なんて最悪の事態ばかりが頭をよぎる。

このままじゃ大学卒業どころか、

死ぬまでごっちんのそばにいてあげなくてはならないような気もしてくる。
ああ、もう嫌だ。 頭が痛い。
私はいつまでごっちんに縛られ続けるんだろう。

 

 

[]

 

 

深夜を過ぎた頃帰宅すると、玄関にごっちんが座り込んでいた。
「わっ、何、どうしたの」
ごっちんは虚ろな瞳でゆっくりと私を見上げた。

「どこ行ってたの、よっすぃー」
「‥‥‥バイトだよ。 今朝言ったじゃん」
「嘘」

ぎくりとした。
私は1歩後ずさりして、ごっちんから目をそらす。

「う、嘘なんか」
「知ってるよ。 彼氏と会ってたんでしょ」

心臓が跳ね上がった。
バレた。 なんで? いつから知ってたの?
くらっと眩暈がして、私は手のひらでこめかみを押さえた。

 

 

「‥‥いつから?」
やっとの思いで喉から声を絞り出した。
ごっちんは唇が読めなかったようで一瞬首を傾げたけど、

すぐに理解したようだった。

「2ヶ月くらい前から気づいてた」
「‥‥なんで分かったの」
「だってよっすぃーの」

ごっちんはそこで言葉に詰まった。
なんとなく嫌な予感がして、私は抑えた声で訊ねる。

「何?」
「‥‥‥」
「ごっちん、何? 言ってよ」
「‥‥けーたい、見た」
「はあ?」

 

 

[]

 

 

考えてみれば、前から色々とおかしいことはあった。

聴力を失っていくと同時に、ごっちんは私にひどく執着するようになった。
私の1日のスケジュールを事細かに知りたがり、

事前に申告した時間に帰宅しなければ機嫌を損ねる。
私が外出しようとすると、行かないでと駄々をこねる。
最近は私の人間関係にも口を出すようになった。
でももちろん、彼氏ができたことはごっちんには言えなかった。

ごっちんは夜1人で眠れないと言って、私のベッドに潜り込んでくる。
寝たふりをしていたら、キスされたこともあった。

どう考えてもおかしい。 ただの友達なのに。
気味が悪い。 だって私たち女同士なのに。
明らかにごっちんは私のことを、ただの女友達とは見ていなかった。

 

 

私の中で何かが吹っ切れた。
もう無理だ。 これ以上ごっちんと一緒に暮らすことはできない。
ここを出よう。

私は荷物をまとめ始めた。
スーツケースを引っ張り出し、服や靴、化粧品、教科書など

最低限の私物を詰め込む。


「よっすぃー、待ってよ!」
部屋のドアが勢いよく開いて、ごっちんが飛び込んできた。

私は小さく舌打ちをした。
私のいる部屋はもともと物置として使っていたらしく、

中からは鍵を掛けられない。
つまりごっちんも自由に出入りできる。
おそらくずっと前から、私のプライベートはだだ漏れだったのだ。

 

 

「ごめん、携帯見たことは謝るから」

ごっちんは私の腕にすがりついて言った。
私は無言で荷造りを続ける。

「ごめんってば。 お願い、出て行くなんて言わないで」

ごっちんは涙目で懇願する。
私はごっちんを無視して、スーツケースの蓋を閉めた。

「よっすぃー、やだ、行かないで。 ずっとあたしのそばにいてよ」

私はごっちんの手を乱暴に振り払って言った。
「うるさいな、しつこいんだよ。

 あたしだっていつまでもごっちんに構ってらんないよ」

 

 

ごっちんは驚いたように目を見開いて、私の顔を見つめた。

「ていうか何? ごっちんってあたしのこと好きなの?

 恋愛の対象として見てるわけ?
 もしそうだとしたら勘弁してくれないかな、そういうの。

 なんか気持ち悪いし」

相手をひどく傷つけていると分かっていながら、

私の言葉は止まらなかった。
ごっちんの体は小さく震えていた。
私を見つめる大きな瞳から、涙がひとすじ流れ落ちた。


私はごっちんから目をそらし、

スーツケースを引きずりながらドアに手をかける。
「じゃあね。 ‥‥長い間ありがとう」
私はそう言って部屋を出た。

ごっちんは何も言わずに、部屋の中で立ち尽くしていた。

 

 

[]

 

 

夜の風が冷たい。
マフラーしてくればよかった。

そう思って何気なく首元を触ったことで、ふと思い出した。
ごっちんとお揃いで買ったネックレス。
あの部屋に忘れてきてしまった。

ひどい言葉を浴びせて出てきてしまったけど、

私はごっちんを嫌っているわけではない。
一緒に暮らすのは無理だけど、今でも大切な友達だと思っている。
少し冷静になった今となっては、

喧嘩別れのようになってしまったのが悔やまれる。

私は立ち止まって考えた。
あのネックレスは2人の思い出の品だ。
‥‥せめてあれだけでも取りに戻ろうかな。

 

 

今来た道を引き返し、ごっちんの家に戻った。
玄関のチャイムを鳴らしたけど、ごっちんは出てこなかった。
当たり前だ。 耳が聞こえないんだから。

だめもとでドアノブを回してみる。
がちゃり。
うわ‥‥鍵、閉まってないし。
ごっちんは相変わらず防犯意識が薄い。

私はそっとドアを開け、忍び足で廊下を歩いて、

かつての自分の部屋に入った。


ネックレスは鏡台の上に置いてあった。
それを手に取り、ポケットに入れる。

どうせならごっちんに気づかれないうちにさっさと出て行こう。
そう思って部屋を出ようとした時、足音が近づいてくるのが聞こえた。
ごっちんだ。
私は咄嗟に身を屈めて、ベッドの陰に隠れた。

 

 

足音は部屋の前で止まった。
ドアは開け放ったままになっている。
私はごっちんが部屋の中に入ってこないことを願いながら

息を潜めていた。

ごっちんはぐすぐすと鼻をすすっている。
自分がごっちんをあんなに傷つけてしまったんだと思うと、

胸が張り裂けそうになった。
ごめんね、ごっちん。 私のことなんか早く忘れたほうがいい。


幸い、ごっちんは私がいることには気づいていないようだった。
部屋には入らず、ただドアの前で泣いているだけだ。

「よっすぃー、ばいばい」
ごっちんは小声でそう言って、ドアを閉めた。
がちゃ。
鍵の掛かる音がした。

 

 

え? ‥‥何?

ごっちんは、中にまだ私がいるということに気づいていない。
きっと私との思い出に蓋をするつもりで、

この部屋の鍵を閉めたのだ。

この部屋は、中から鍵を開けることはできない。
まさか‥‥閉じ込められた?

 

 

私はドアに駆け寄って叫んだ。
「ごっちん! 開けて!」

拳でドアをどんどんと叩く。
「お願い! ごめん! あたしまだ中にいるの! ごっちん!」


外からは何の反応もない。
なんで気づかないの? こんなに大声出してるのに。
私を懲らしめるために、気づかないふりをしてるんだろうか。

もう1度ドアを叩こうとして、私はやっと気づいた。


反応がないのは当たり前だ。
ごっちんは耳が聞こえないんだから。

 

 

すぅっと血の気が引いていく。

もともと物置だったこの部屋に、窓や暖炉はない。
通気孔は狭すぎる。
つまり、出入り口はこのドアだけ。
ごっちんがドアを開けない限り、私はこの部屋から出られないのだ。


私は拳でドアを叩き、叫び続けた。

「ごっちんお願い! 気づいて!

 ‥‥も、もう出て行くなんて言わないから! ごめん!
 一生ここにいるから!

 お願い、開けて! 開けてーーー!!!」

 

 

 

[[[]]]

 

 

 

高校の時お世話になった先輩が死んだ。

不運な事故だったらしい。
彼女と一緒に住んでいたという友人が聾唖者で、

助けを呼ぶ声に気づかなかったそうだ。

 

その友人が1週間ほど後にドアを開けた時、

彼女はすでに衰弱死していた。
体はやせ細り、両手の骨が折れ、爪は剥がれ、

ドアは血まみれになっていたという。

美人でかっこよくて、大好きな先輩だった。
友達の麻琴と一緒にお葬式に行って、私たちは人目も憚らず

わんわん泣いた。

 

 

[]

 

 

「こんこん、知ってた?

 吉澤さんが同棲してたのって後藤さんだったらしいよ」

事件から1年が経ったある日、麻琴がそんな情報を持ってきた。
ニュースでは吉澤さんの名前しか出なかったから、

そのことは全く知らなかった。

「なんか意外だよねー。

 友人とか言いつつ、どうせ一緒に住んでるなんて彼氏に

 決まってんじゃん、とか思ってたし」
「そうだねぇ」

第一、 少なくとも私たちの知っている後藤さんは健聴者だったし。

「ルームシェアってやつかなぁ?」
「いや、違うらしいよ。 後藤さんの実家に2人で住んでたみたい」

確かに後藤さんは吉澤さんと仲が良かった。
3年生の時に中退してからは消息不明だったけど。

 

 

後藤さん、か。
久々にその名前を聞いて、私はなんだか懐かしい気持ちになった。
実を言うと私は、

彼女に対して恋心のようなものを抱いていた時期があったのだ。

「そういえば後藤さんって、

 親が亡くなったから学校辞めたって噂あったよね」
「そうだっけ」
「1人が淋しいから吉澤さんと一緒に暮らしてたのかな」
「‥‥‥ねぇ、麻琴」
「ん?」
「後藤さんに会いに行こうよ」

 

 

突拍子もない私の提案に、脳天気な麻琴は2つ返事で乗った。

高校時代、後藤さんも吉澤さんも

同じ部活だった私たちの面倒をよく見てくれていた。
私たちにとっては、特に親しみ深い先輩たちだった。
麻琴自身、後藤さんに会いたくてうずうずしていたのかもしれない。

事件のショックも癒えてきた今、久々に後藤さんに会いたい。
高校時代の思い出話がしたい。
実は私、後藤さんのこと好きだったんですよ、

なんて告白しちゃおうかな。

 

 

[]

 

 

「わー、久しぶりだねぇ。 元気だった?」

5年振りに会った後藤さんは、

昔より痩せてさらに綺麗になっていた。
言われてみれば、確かに発音が少しおかしいような、

呂律が回っていないような感じもした。

「お久しぶりです。 後藤さん、あの、失礼ですけど、

 耳が聞こえないって伺ったんですけど」
「あー平気平気、会話は普通にできるから」
「そうなんですか」
「うん、はっきり喋ってもらえれば唇の動きで大体分かるし。

 どうぞー、上がってー」


後藤さんに促されて、私と麻琴は家の中に入った。
この家の中で吉澤さんが死んだと思うと、鼻の奥が熱くなって

また涙が出そうになる。

でも、この家でずっと暮らしている後藤さんはもっとつらいだろう。
自分のせいで吉澤さんは死んだんだ、

と今でも自分を責めているかもしれない。

 

 

「今お茶入れるから待っててね」
後藤さんはそう言ってキッチンへ向かった。

噂に聞いていた通り、後藤さんの家は相当なお金持ちのようだ。
外国の家に来たみたい。
応接間は何もかもがゴージャスだった。

「こんこん、これ見て! 超高そう」
「すごいっ、ソファがふかふかだー」
「暖炉とかシャンデリアとか、一般家庭で初めて見たよ」
「カーペットも高いんだろうなぁ」

後藤さんを待っている間、

私と麻琴は物珍しげに応接間の中を歩き回った。

 

 

ふと、視界の端にきらりと光るものが映った。
なんだかよく分からない豪華な家具の上に、銀色のネックレスが

無造作に置かれている。
私は何気なく、そのネックレスを手に取った。

「お待たせー」
後藤さんがコーヒーを持って応接間に入ってきた。

「ちょっと紅茶が切れててね、コーヒーなんだけど、2人とも飲める?」
「あ、大丈夫です」
「私もコーヒー好きなんで大丈夫です」

 

 

後藤さんは私たちの横を通り過ぎて、テーブルの上に

ミルクや砂糖、コーヒーのカップを並べ始めた。

私は手に取ったネックレスをまじまじと見つめた。
たいして値の張る物ではなさそうだが、センスの良いデザインだ。

もっとよく見ようと顔を近づけた時、
「あっ」
ネックレスは私の指の間をすり抜けて、カーペットの上に落ちた。

後藤さんが振り向いた。

 

 

「あ‥‥ごめんなさい。 えーと、これ綺麗だなーと思って」
私が慌てて言い訳めいた口調で言うと、後藤さんは微笑んで言った。
「それ、よっすぃーとお揃いなの。 可愛いでしょ」
「え‥‥」

しまった。 地雷を踏んだ。
吉澤さんのことには触れないようにしようと思ってたのに。

「なんかすみません‥‥」
「いいよ、気にしなくて。 よっすぃーのことは、‥‥私が悪いんだけど、

 いくら自分のこと責めたってよっすぃーが生き返るわけじゃないし」
後藤さんはそう言いながら、やっぱり悲しそうな顔をした。


「ごっ、後藤さん、このコーヒーおいしいっすね!」
暗くなりかけた雰囲気を変えるように、麻琴が明るい声を上げる。

「あはは、普通のインスタントだけどね」
後藤さんが笑ったので、私もほっと胸を撫で下ろした。

 

 

[]

 

 

私たちはコーヒーを飲みながら適当に世間話をして、

高校時代の思い出話に花を咲かせ、無難にお開きとなった。

後藤さんが思ったより元気そうだったので、私は安心した。
平穏な日々が戻りつつある。
あの事件のことは早く忘れたほうがいいのだ。


麻琴と分かれた帰り道、私はさっきのネックレスのことを考えていた。
吉澤さんとお揃いだと言った、銀色に光るネックレス。

―――ふと違和感を覚える。
でも、それが何なのかは分からない。

さっきの場面を思い出そうとすると、何かが引っ掛かる。

 

 

私はネックレスを手に取った。
眺める。 綺麗だ。
ネックレスが手から滑り落ちる。
私は思わず声を上げる。
後藤さんが振り向いた。


そこまで考えて、私は立ち止まった。

後藤さんが、後ろを振り向いた‥‥?

 

 

なぜ後ろを見たのか?
後藤さんは耳が聞こえないはずだ。

ネックレスが床に落ちた震動?
いや、あんな軽い物が、しかもカーペットの上に落ちて、

震動が伝わるわけがない。

じゃあなぜ後ろを見たのか。

信じたくない仮説。
―――私の声に反応したから?


今日はたくさん話をした。
やけにテンポの良いスムーズな会話。
いくら唇の動きが読めるとはいえ、あれだけ喋って、

後藤さんは1度も私たちの言葉を聞き返すことはなかった。

家に着いた時、後藤さんは私たちを迎えてくれた。
なぜ玄関まで出てきたのか?
私たちが、玄関のチャイムを鳴らしたからだ‥‥

 

 

動悸が速くなる。
体が震える。
背すじが冷たくなる。


後藤さんは聾なんかじゃない。
れっきとした健聴者だ。
‥‥聞こえないふりをしていただけなんだ。

‥‥‥本当は吉澤さんの声も、ちゃんと聞こえていたんだ‥‥‥

 

 

 

 

 

 

 

→ back ←